第4日 チビタベッチア泊

昨晩は疲れていたせいかぐっすり眠った。出発が遅かったので、寝たのも2時をまわっていた。まだ暗いうちに一度目が目が覚めると、窓には雨が叩きつけ、頭上に稲光が落ちた。

寝坊するだろうと思ったけれど、明るくなると目が覚めた。船室でヨーグルトとフルーツの朝食。昼は昨日買い込んだサラダ。今日一日、真夜中にチビタベッチアに到着するまで、船の中でやることはほとんどない。この船はサルディーニャ島に立ち寄ってから最終目的地に行く。サルディーニャでの荷物の積み下ろしには順調に見えた。が、真夜中に到着するはずが遅れに遅れて、チビタベッチアに接岸したのが翌8日の早朝3時15分。宿に着いた頃には、早起きの鳥たちがさえずり始めていた。

写真は上から
船尾
サルディーニャで着岸
やっとチビタベッチアに到着した!

 

第3日目 船中泊

ザラゴザからバルセロナへ。今日はこれからの旅に備えた準備をしなければならない。ポルトガルでは手に入らなかった雪道用のチェーンの購入である。

バルカン半島諸国では、11月から雪道対策をしなければならない。スノータイヤは必需品。最も厳しいのがボスニア・ヘルツェゴビナ。スノータイヤ以外にチェーンと10キロだか25キロだかの砂の携帯が義務付けられている。スノータイヤに関しては、すでにポルトガルで雪道でも使えるタイヤに交換した。チェーンはポルトガルでも探したが、簡単には入手できそうもなかったので。バルセロナのショッピングセンターで買うことにしていた。砂はウチの庭で野晒しになっていたものを5リットルの飲料水のペットボトルに詰めて車に積んだ。

スペインのバレンシア地方では10月29日、観測史上前例のない集中豪雨が発生し、土石流によって200人以上が犠牲になるという災害があった。8時間の間に1年分の雨が降ったのに、洪水が発生してから集中豪雨警報が発出されたため、逃げ遅れた人が土石流に呑まれて被害が拡大、大惨事となった。交通が寸断され救出作業は進まず、支援物資も届かず、水が引いた後の復旧作業(泥のかき出し)で地元民は疲労困狽。政府は何もしてくれない、自分たちは見捨てられたという絶望感が広がっていた。

第2日目 ザラゴザ泊

観光シーズンが過ぎたスペインには日常の顔が戻っている。宿の近くのカフェでクロワッサンとカフェ・コン・レイテの朝食後、ザラゴザへ向けて出発。紅葉の美しいドゥエロ川を何度かわたる。途中、ベルランガ・デ・ドゥエロ(Berlanga de Duero)に立ち寄った。今では遺跡となった城や宮殿がある。何世紀にもわたって歴史の波にもまれてきた町である。

長い間、ザラゴザを再訪したいと思っていた。1986年、8月のある暑い夏の日に母とヨーロッパを旅行していた私は多分列車で到着した。バスではなかったと思う。街についてからガイドブックを見ながら照りつける太陽の下、何軒かの安宿で値段を聞いて回った。付き合わされた母は、かなり機嫌が悪かった。

この頃、母の中で海外旅行といえばゴージャスなパッケージツアー。宿泊はいいホテルで、荷物は誰かが運んでくれる。毎日おしゃれな洋服や着物を着て、いいレストランで食事して、バスで名所を訪れて、記念写真を撮る。お友達や家族にたくさんお土産を買って帰国して、旅の話をすればみんなに羨ましがられる、と想像していただろうと思う。

第一日目 アランダ・デ・ドゥエロ泊

久しぶりの長期旅行を何となく考えていた。スペインはバルセロナからイタリアのチビタベッチア(Civitavecchia)まで、イタリア半島を横切って反対側のアンコナからギリシャのパトラまでカーフェリーを利用してアテネへ。ギリシャを周り、バルカン半島諸国、イタリア、フランス、スペインを通ってポルトガルへ帰ってくる約一ヶ月のロードトリップである。

夏の終わり頃から真剣に考え始めたが、9月半ばに車が故障。これではロードトリップは無理かもしれないと一時は諦めかけた。車がダメならば、バックパックで公共交通機関を使っての旅行でもいいかも、とも考えた。65歳(!)になるとポルトガルでは列車料金が半額になる。欧州諸国でも割引がありそうなので、交通費は安く上がりそうだ。それに、途中で車が故障する心配する必要もない。それでも車の利便性は捨て難い。私はこれまで、車での長期旅行をやったことがない。運良く、出発の10日前ほどになって車の修理が完了、これならば大丈夫そうだということになった。

そして今日、第一日目。

どうする、どうする、となりのキンタ(農地)?

ウチに隣接して小川まで続いている急斜面の土地が手に入れば、当分の間は水不足を心配しなくてもよくなる、と何年も考えていた。下草ぼうぼうで放置されているその土地は、森林火災の時期には大きな脅威となる。自分たちの土地ならば、思うように手入れもできるのに、と毎年、森林火災の時期になると不安になったが、持ち主が特定できずにいつしか忘れていた。

持ち主が特定できなかったのには訳がある。言葉の壁もあるが、この辺りでは(あるいはポルトガルの地方では?)、いとこ同士の結婚が多い。集落や村では誰も彼もが「従兄弟もしくは従姉妹」。しかも日本と違って、同じ名前の人ばかり(注)なのだ。「私の従姉妹のマリアが...」と言われても、みんなマリアなので(ポルトガル人はわかるようだが)どのマリアだかわからない(ちなみに隣のアリスはマリア・アリス。8人の妹がいたがみんな、マリア・ローザ、マリア・マニュエラ、マリア・グロリア...だった)。たとえ持ち主がはっきりしても、売る気がないかもしれないし、ガイジン=金持ち(ATM)と思われて法外な値段をふっかけられて不快な思いをしたくもなかった。

スペインで車が故障! その後

故障した車が積載車に載せられてスペインからポルトガルに移動させられ、国境の修理工場に搬送されて二週間が経つ。その間、車は一時、行方不明になっていた。

経過を整理してみよう。

9月12日 車がスペインで動かなくなって、積載車でビラール・フォルモサの修理工場に移送される。私たちは保険会社が準備したレンタカーで帰宅。16日には最寄り町の指定修理工場に車が搬送されるという話だった。

9月16日 15日に発生した大規模森林火災で、あちこちの道路が通行禁止に。それが理由かどうかはわからないが、車はビラール・フォルモサの修理工場をまだ出発していない様子だった。こちらも森林火災で忙しくて、確認する暇はなかった。

9月20日 森林火災が落ち着いてから連れ合いが保険会社に連絡すると、20日中には到着するという返事だったが、どこに行ったのか不明。

9月23日 もしかすると保険会社がウチの車を紛失した? 私はどこかで盗まれて今頃モロッコあたりに密輸されているのではないかと心配になってきた。保険会社からは、修理は全て終わっているので、評価してもらいたいと言うメールが連れ合いのところに届いた。再度問い合わせると、確かに車は最寄り町まできてはいるようだが、どこに行ったかわからない。

六つ子のヘビ?

庭で時々、ヘビの抜け殻を見かける。大抵、長さは1メートルちょっと。薄くて軽くて、取扱注意。乱暴に扱ったらチリになってしまいそうである。

ある日、用事があって近くの村の廃校(とは言っても色々なイベントが行われる)を訪れた。入り口の石段に足をかけると細いヒモのようなものが目に入った。よくよく見てみるとヘビの抜け殻。手に取ってみると、1匹の細いヘビではなくて、6匹分の子ヘビ(?)の抜け殻だった。長さは40センチから50センチで、直径は1センチくらい。六つ子のヘビ?!

ヘビは石に体を擦り付けて脱皮する。この子たちはここでみんな一緒に脱皮したのだろうか。ヘビって集団生活をするものだったかしら?

多くのポルトガル人はヘビ恐怖症だ。ヘビは恐ろしいものと思い込んでいるのか、見たら直ちにシャベルやクワで叩いて殺してしまうのだ。毒ヘビか、敵(例えば人間)を攻撃する体制になっているかどうかは関係ない。隣人のローザが狂ったようにヘビの頭にシャベルを叩きつける場面を、何度見たことだろうか。そしてそのうちの1匹も助けることができなかった。

皮だけ残していったこの六つ子。人目につかない場所で無事に育ってくもらいたい。

 

写真は上から

六つ子のヘビの抜け殻

顔まで綺麗に見える

ファドの路上公演

ポルトガルの村には、楽隊が演奏する円形の屋外スタンドがある。子供達の遊び場になっていることが多い。実際に、楽隊が演奏をしているのは一度しか見たことがない。

8月末のある夜。近くの村でコインブラのファドが演奏されるというので聴きに行った。この日は夜になっても寒くならず、屋外コンサートには打って付けだった。屋外スタンドが舞台になるはずだったが、高すぎて歌い手もギタリストも椅子に座った聴衆には見えないだろうと、急遽、その隣にある水くみ場が舞台になった。聴衆は路上に並べられた椅子に座る。この道路の先は行き止まりだから、車はあまり通らない。半円形に石壁でかこまれた水くみ場は音響も良い。聴衆の半分はポルトガルに移住してきた外国人だったようにみえたが、身なりの良い地元ポルトガル人もちらほら。

コインブラ・ファドはリスボンのファドとは異なり、歌い手は男性。通常のギターとポルトガル・ギターの演奏で歌う。ギタリストも当然のように男性である。この日は珍しく女性がポルトガル・ギターを演奏した。
 

写真は上から

水くみ場の前でファドを歌うファディスト。向かって右側が女性のギタリスト

同上

ファドに聴き入る聴衆

 

初めて豚の世話をする

近くに住むフランス人一家が、数週間、モロッコに出かけるという。彼らはポルトガルに来る前にはカサブランカ近郊に住んでいた。私たちが長期留守した時には、イヤン(夫)がウチの庭の世話をしてくれた。

留守番を頼んでいたのだが、直前になって留守番を引き受けた人が倒れた。急遽、他の友人に留守番を頼んだが、最初の3日間、誰も引き受け手が現れず、近くに住む私たちが動物の世話をすることになった。

鶏とアヒル、豚とネコである。犬はウチの集落に住んでいるヴァレリーが預かることになった。1日に2度行って、水と餌をやる。アヒルと鶏は朝には小屋から出して夕方にはまた小屋に戻す。

ネコと鶏の世話は何度もやったことがある。でも、豚は初めてだ。一頭はイノシシとブタのあいの子。牙はないが、大きい。残りの4頭は成獣になっても小さいままの「小」ブタちゃん。囲いの近くまで行くと、喜んでどこからともなく走ってやってくる。大きな一頭は、嬉しいからなのだろうか、鼻を押し付けてくるのだが、ついでに私の足も踏む。餌を餌箱に撒くとものすごい勢いで食べ始める。ブタってこういうものだったの? 毎日顔を合わせていると愛着が湧いてくる。

竹の開き戸を作る

道路に面した庭の一角に毎年一度だけ、冬に薪ストーブで使う薪を搬入する時に、開閉する開き戸がある。元々はブドウのつるが絡んだただの垣根だった。何年も前に、連れ合いがつると支柱やワイヤーを1.4メートルほど押し除けて、友人からもらってきた直径10センチほどの竹で作ったものだ。

時が経って、麻ヒモが劣化してボロボロになり、重さで蝶番が歪んで、だんだんと形が崩れ、ちょっとかわいそうな状態になっていた。その状態で数年経ってしまったのだが、やっと一念発起、開き戸兼垣根を作ることにした。

とは言っても、そんなものを作ったことは一度もない。まだ幼稚園の頃だろうか、父が作った開き戸に上って遊んだことがある。インターネットで調べると、色々と出てくるが、私のイメージに一番近かったのは枝折り戸。でも、サイトを見てみると「表皮はぎ」とか難しそう。父が作った開き戸は、もっと簡単に細めの竹を丸ごと使っていたような気がする。

庭には小さな竹林がある。生えているのは太くても直径が6センチほど。収穫した竹を前に、どこから手をつけたらいいのだろうかとちょっと呆然としたが、竹をそのまま使うのは無理な気がしてきた。

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