アリスのいない村
ポルトガルに移住して15年間、ずっと隣人だったアリスがリスボンに行ってしまった。88歳。一人暮らしが難しくなってきたのだ。以前から足が悪く、段々と庭に出なくなっていた。彼女の家は二階建てで、昼間は一階のキッチンで過ごしていた。階段の上り下りが難しくなったため、去年だったか、家の一階にバスルームを設けた。そうすることで、石の階段の上り下りは1日に一回で済むようになった。時々、朝、階段を降りてくる姿を見かけることがあった。手すりにつかまりながらゆっくりと、一歩一歩確かめるように降りてきた。見るたびに、足を滑らせないで、落ちないでと祈らずにはいられなかった。
彼女は7人姉妹の一番上。姉妹の中で一人だけ運転免許証を持っていて、気軽に町まで妹のローザと連れ立って買い物に行っていた。村に一軒だけあるカフェは彼女とローザが運営していた。文字が読めない人のために、手紙やお知らせを音読し、時には代筆もしていたようだ。明るく、暖かく、頼りになるアリスがいるから村がまとまっている、と私には思えた。夜になると、彼女のキッチンに村の女性が2、3人集まって、一緒にテレビを見たりおしゃべりを楽しんでいた。私たちも、旅行に出かける時などは彼女に家の鍵を託していった。
何となく、アリスはずっとこの村にいるだろうと思っていた。妹がすぐそばに住んでいるし、買い物などは私たちがやることもできる。だが、一人暮らしはやはり無理だ、と家族がリスボンに住むアリスのすぐ下の妹と一緒に暮らすように話を進めた。83歳のマニュエラは数年前に夫を亡くし、一人暮らしをしている。
孫がリスボンから車で迎えに来る、と私たちに告げた時、アリスはなんともやりきれない表情をしていた。村を去る当日、自分のことを決めることはもうできなくなってしまったと、悲しそうだった。
アリスがリスボンに行って一週間ほどしてから、訪ねて行く機会があった。住み慣れた村から離れて、どれほど悲しがっているだろうか、落ち込んでいるのではないだろうか、と心配していたので、思ったよりも明るく元気そうだったのは意外でもあったが、ほっとした。マニュエラの家は話に聞いていた通りに広々としたアパートで、エレベーターもついている。風通しが良く、明るい。曽孫の通う学校が、アパートのベランダから見える。 周りはカフェ、レストラン、スーパー等などがある繁華街で賑わっている。
新型コロナで学校の予定が不規則になっているために、アリスの娘のエレナが自分の孫二人の面倒を見るために、アリスと一緒にマニュエラのアパートに滞在している。
村に帰りたい、と寂しそうな表情は見せたが、ほとんど料理もしなくなってしまったアリスにとって、妹と同居できるのはやはり、最善の選択だったのかもしれない。若い時にリスボンで暮らしていたため、都会暮らしは初めてではないから、馴染みやすいというのもあるだろう。
村に帰ってくると、やはり寂しい。毎朝、窓を開ける音がしない。夜、帰って来ても、アリスのキッチンに灯りはない。ローザは、「アリスはもう自分では料理もしないし、庭に出ることもない。私が毎日食事を準備するわけにもいかないし、誰が面倒を見るというの? これしかやりようがなかったのよ」とサバサバしている。実際的なローザらしい。
これまでも、仲の良かった村人の何人かが施設に入ったりして村から去っていった。アリスがいない村は、少しだけ色が褪せたように見える。
写真はアリスが生まれた家。廃屋になっているが、まだ村の中にある。


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